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出羽湊城(でわのみなとじょう)は、出羽国土崎湊(秋田県秋田市)にあった平山城、平城。もともとは14世紀中ごろまでには築かれていたと思われていたが、現在はそれとは別に、1597年に秋田実季が築いた新城でもあるとする説が有力である。土崎湊城とも呼ばれる。単に湊城と言った場合、この城を指すことが多い。
土崎湊の地は、1395年(応永2年)に十三湊の下国安藤氏の一族である安藤盛季の弟鹿季が、当時このあたりを支配していたとみられる上国安東氏にかわって入部し拠点としたとされる。当時の湊城は現在の寺内後城(秋田城の西方、旧雄物川に面した小高い丘)にあったと考えられており、実際この地区からは15 - 16世紀のものとみられる陶磁器が出土している。城自体は鹿季が築いたとされるが確証はない。
鹿季はこの後湊氏と称し、秋田城介を名乗った。また、以後湊安藤氏(この頃から安東氏とも)の累代が支配する一方で、下国安藤氏は盛季が南部氏に敗れて蝦夷地に逃れ、後に盛季の後継者政季が湊安東氏に招かれて檜山(秋田県能代市)に土着した(政季の子忠季以降は檜山安東氏と呼ばれる)。その後、湊安東氏は安東尭季が後継者を定めないまま亡くなり、宗家であり尭季の娘婿でもある檜山安東氏の当主愛季の弟茂季が継いだ。しかし、湊安東家配下の国人の一部が反乱を起こしたため、愛季が反乱を鎮圧し、湊城に入ることで湊安東氏も継承して安東氏は統合された。
愛季が亡くなり、子の実季が家督を継ぐと、茂季の子通季が南部氏や小野寺氏と通じ、角館城主の戸沢盛安の支援を得て反乱を起こし、湊城を攻撃した。そのため、実季は湊城を脱し北方の砦に篭城したが、盛安の領地に近い比内地方に南部氏が侵攻したため、道季に湊(土崎湊)と船越(現男鹿市船越)を与えることを条件に休戦した。その後、通季と盛安は兵を引いたが、実季は上杉氏の重臣本庄繁長と誼を通じ、由利郡の由利十二頭に助勢を求めた。そして、通季の家臣団の分断を図って湊城に攻め入り城を取り戻すと、通季は仙北郡に落ち延びた。さらに、戸沢・小野寺連合軍との合戦を経て、実季は秋田郡の支配権を確固たるものにした。(一連の戦いは湊合戦とも呼ばれる)
湊合戦の後、実季は土崎湊の地で大規模な築城を行い、二重の堀をめぐらした平城を築いた。この新城も湊城であるが、旧湊城が廃却されたかどうかは不明である。関ヶ原の戦いの翌1601年に完成したが、実季はその翌年1602年に常陸宍戸に転封となり、かわりに秋田転封となった佐竹氏の佐竹義宣が入城した。しかし、安東氏の領地は5万石程度であったが佐竹氏はその約10倍、54万石の大名であったため、家臣団の屋敷なども構えるとなると湊城は狭く、また拡張の余地も少なかった。そこで、義宣は久保田神明山の地に新たに久保田城を建設してそちらに移り、湊城は廃城とされた。1615年、一国一城令が出されると湊城は取り壊され、1620年には跡地に土崎神明社が建てられた。
湊城は平城であったため、取り壊し後の土地はその多くが町人の屋敷となり、江戸時代における土崎湊町の隆盛の基盤となった。