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九戸城(くのへじょう)は、岩手県二戸市福岡城ノ内にあった城である。別名を福岡城や宮野城という。 国の史跡に指定されている。
中世の平山城で、主に南部氏の一族である九戸氏が居城した。
馬渊川と白鳥川との合流点に位置する台地を利用し、空堀によって、二の丸、若狹館(わかさだて)、外館(とだて)松丸などの曲輪群を形成し、本丸の一部には石垣をもつ。東北地方では有数の規模であったが江戸初期に廃城となった。
天正期(1573年~1591年)の城主九戸政実は、三戸城にいた宗家の南部信直と対立、抗争を繰り返していた。
天正19年(1591年)、九戸政実は南部信直に対して兵を挙げるが、南部信直が豊臣秀吉から領地安堵をとりつけたことから九戸政実の反乱(九戸の乱)とみなされ、徳川家康や豊臣秀次などが討伐軍として派遣された。秀次は浅野長政、蒲生氏郷、堀尾吉晴らの諸将を率い、関東・奥羽の諸将も討伐軍に従い城を攻めるも九戸城を攻め切れず、同年9月、豊臣秀吉は助命を条件に九戸政実に開城を迫り、政実はこれを受け入れて開城した。しかし助命の約束は反故にされ、城内に居た者はすべて惨殺され、政実も捕えられ処刑された。この乱は、秀吉による天下統一事業の総仕上げとされることがある。
この後、九戸氏の残党への警戒から、秀吉の命によって居残った蒲生氏郷が城下町と城を改修し、南部信直に引き渡されて三戸城から居を移し九戸を福岡と改めた。慶長2年(1597年)の不来方(盛岡)築城によって南部氏の居城は盛岡城へ移されたが、城は寛永13年(1636年)の廃城、破却まであった。